安眠サバイバル


オヤスミ、から、三秒で眠れる兄には解るまい。
健やかな安眠を手にいれるべく、弟は死ぬほど精神をすり減らしていたりする。


硬質で甲高い目覚まし時計の音に叩き起こされるよりも早く目を覚まし、耳障りな母親の声が鼓膜を破るよりも早く着替えを済ませる。二段ベッドの下の段でマヌケ面晒して惰眠を貪っている男は見て見ぬ振りして一階へ下り、万年ダイエット中の母親のおべっかは右から左へと聞き流す。
都内へはるばるご出勤のお父上殿のために用意された早め朝食を、新聞を片手に味噌汁を啜るビール腹の男とは目を合わせないままに摂取。時折思いついたように天気がどうだとか最近物騒だとか喋り出す、未婚の叔父上、御歳31サイの腰にクるような低音もシャットアウトして、5分で朝のエネルギーを補給し、歯を磨きに席を立つ。
お兄ちゃん起こしてちょうだい。
(聞こえマセン)
水を勢い良く出し過ぎてます、ごめんなさい。
寝癖のつきにくい硬い髪を水で大人しくさせると、母親が兄を呼ぶ声を背中に、弟は結局寝惚けた兄の顔は拝まないままに外の世界へと飛び立っていくのだ。
未知だけれど、常識人でありたい弟には親切な空間に。


悲劇が起きたのは忘れもしない、一ヶ月前。
父の会社の催しだとかなんだかで、両親が家を留守にした恐怖の2日間。
部活の対抗試合で遅くなった一日目、兄と伯父がいるはずの家は何故だか暗く、二人で外食にでも行ったのかと憤りながらドアを開けた。
汗をシャワーで流して麦茶を飲んでから、着替えを取りに上がった部屋の前で。
耳に飛び込んできたのは、やたらと苦しげな伯父の声。と。
「イイっしょ?裕樹サン、ここ感じやすいもんね」
――― 脱兎。


あの忌々しい夜から耳について離れない。
ヒマさえあれば寝てばかりいる、使えない兄の低くて甘い声。
転がるように階段を駆け下りて、伯父が慌てて呼ぶのを背中に聞きながら、親友藤木の家に駆け込んだ。
(ホモだったなんてホモだったなんてホモだったなんて!)
何も言わずに布団を譲ってくれた親友に感謝する余裕もなく、男泣きに泣いて、持て余した熱に、また少し、泣いた。


伯父の声を聞いて思い出すのではなく、兄のすっとぼけた寝顔を見て思い出してしまうのは、馬鹿でマヌケで子供染みたことばかりしてオトナをからかって楽しんでいる、頼りない男はまだ純粋無垢なガキなんだと心のどこかで思い込んでいたせいかもしれない。
オンナと付き合ってるなんて話は聞いたことが無かったし、噂も無かったし、現にデートに出掛ける姿も見たことがなかったから。
人生15年の中、何人かの彼女がいて、年頃の青少年なら興味のあるAからCまでの経験も積んでいた自分の方が、ずっとオトナに近いのだと思っていたから。
それなのに。
オンナとの噂を聞かないはずだ。
兄はホモで、よりにもよって伯父とデキていたのだから。
しばらくまともに顔が見れなくて逃げ回っていた弟の耳を引っ張って、寝惚けた男が一言。
「別に付き合ってるわけじゃねーから。セフレってやつ?」
実はおまえがホンメイだったり。
一瞬でリンゴ病にかかった弟を見て、馬鹿な兄はニヤリと笑った。


忌々しい記憶を抹消し、今夜も健全な眠りを手にすべく。
兄よりも早くベッドに入って、もぞもぞと疼く腹の辺りを押さえつけながら瞼をぎゅっと閉じる。



fin.

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