雨が降る。 分厚い雲に埋め尽くされた空を見上げてそう予感するように、治義にはそれが分かる。 瞼を一度、ゆっくりと閉じるだけでいい。 それだけで、再び持ち上げた視界は、歩道橋の下や自動販売機の横、横断歩道の隅などにひっそりと佇んでいるものたちの姿を捉えてしまう。瞬き程度ならば問題は無いけれど、太陽の陽射しに片目を伏せてしまえば、次の瞬間には彼らと目が合うのだ。 『――― たすけて』 たすけてと、訴えられる。 耳を劈くような悲鳴もあるし、低く圧し掛かるような囁きもある。 恨みも怨みも、そして憾みの声も。 どんなに叫ばれてもどうすることも出来ないのだ。 治義はただ見えるだけであって、本や何かで知る霊能力者などではない。 それなのに一度気付いてしまった存在たちは執拗で。 ひたすら孤独な時間を過ごす彼らは、偶然巡り合った、自分の存在を認められる人間に執着する。 救えと訴えてくる。 『たすけて』 治義は口許を手で覆った。 午後六時半。 帰宅ラッシュに人波が絶えない駅前で、もうそれ以上どうにも動けなくなって足を止める。肩や背中を押しながら擦れ違う人々は一様に迷惑そうな顔を浮かべるけれど、治義はその視線を気にかける余裕すらない。風に煽られ舞い上がった砂埃に、思わず目を閉じてしまったのがいけなかった。 『おかあさんがいないの』 たすけてと繰り返す少女の小さな手が、縒れたTシャツの裾を掴む。 温度を持たない、抜けるように白い肌が気持ち悪い。 死んでいるくせに、もう生きてなどいないくせに、それでもまだ澄んでいる漆黒の瞳が気持ち悪い。 「………っ、…」 昼に食べた格安ハンバーガーが食道を駆け上がってきそうになって、治義は周りから頭ひとつ分抜き出た長身を屈めた。そして唐突にその肩に触れた手を弾くように振り払って、息を詰める。 「なにをやっているんだ、おまえは」 「……曽我、さん」 見慣れた顔に安堵した途端、どうやら意識を失ったらしい。 目が覚めてまず飛び込んできたのは、やはり見慣れた天井の染みだった。 暑気あたりのようにまだ響く頭を横にして、隣で眠っている男を見る。また祓ってくれたのだろうか。ブラインドの隙間から零れる夏の陽射しが照らす頬は、生気が感じられないほどに青ざめていた。 「……曽我さん?」 重たい腕を持ち上げて、確かめるようにその腰を抱き寄せる。緩く瞼を上げた相手の、咎めるような視線には構わずにその胸元へと顔を埋めた。 まだ曽我だ。 治義はほっと息を吐く。 まだ瞳は、蒼くない。 「治義」 疲れた声はそれでも、名前を優しく呼んでくれる。 「治義、なんだ、寝惚けているのか?」 わざとらしい溜息を漏らしながら抱えるように治義の頭を抱いて。 視線を上げれば、額へそっと口付けを落として。 「――― 時間だ」 「曽我さっ……!」 反射的に身体を起したときには、もう曽我の身体から力は抜けていた。 治義は両手で顔を覆って深く酸素を吸い込む。 やがて、静かに、男が身じろいだ。 腕を伸ばしながらゆっくりと上体を起こし、暫らくぼうっとしてからようやく治義に気がついて微笑む。 「あぁ、おはよう、ハル」 またやっちゃったのかと部屋を見渡して笑うその瞳は、海よりも濃い色の青だ。治義は吐き気を堪えて筋肉を緩めた。 「おはよう ――― 父さん」 曽我が死んだのはもう4年も前のことだ。 真夏の茹だるような暑い夜、いつものように彼等に追い詰められ、手を引かれて横断歩道へ飛び出した治義を、血の繋がらない叔父が庇った。 彼は即死で、そして治義は無傷だった。 当時は泣いて、泣いて、声を潰すまで泣き叫んだけれど。 自分の名前を呼ぶ父の声が、時々別のものになることに気がついて。 「治義、」 治義は泣くことをやめたのだ。 彼はいつだって傍に居てくれる。 「またか、治義。いい加減払い方ぐらい覚えろ」 「曽我さんが居るから、いいよ」 そう言うと彼は、決まって寂しそうに微笑うけれど。 fin. |
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