悪くない人生だった。 そう思う。 30代後半で開いた日本料理店は今や週に3度は取材を受ける老舗になったし、4年前に逝ってしまった妻との間に生まれた一人息子は、押しも押されぬ料理人になって店を継いでくれている。 良い軌道に乗るまでの様々な苦労すら、共に分かち合ってくれた最良のパートナーと友人たちの笑みのおかげで暖かい思い出に変わり。 産声を上げたのは凍てつくような寒い真夜中で、それも今にも崩れ落ちそうなあばら屋だったけれど。 最近の体調と医師の診断からして、最期の眠りは穏やかな春の日に、心地よい畳の匂いに包まれながら迎えられるのだろう。 (あぁ、本当に良い人生だった) 将寛は心から思った。 やり残したことも悔いも何もない。 そう頷きかけて、ふと思い出す。 大戦の最中。 想いを誓った相手がいた。 その人は見る者全ての目を奪うような、美しい黒髪の持ち主だった。 1945年6月。 戦況は悪化する一方だと、懇意にしてくれている松原中尉が唸った。 駐屯している村の金持ちから頂戴してきた酒のせいだろう。中尉を筆頭に、相模准尉や普段は寡黙な友能曹長までも、誰かに密告されたら即刻死刑台の世話になりそうなことを並べ立てていて、先日ようやく上等兵にまで上がった将寛は一人肝を冷やしていた。 「おい、友能。貴様の班で動ける者はどのくらいだ?」 「ここにいる谷崎と、衛生隊からの科野の2名のみです」 隣で酌をしているところを顎で示されて、将寛は無意味に会釈をする。それを喉で笑いながら、反対隣から相模准尉が腹を突付いた。空の碗に目配せされて残りが少なくなってきた一升瓶を傾ける。 「他はどうした。全く無理か」 「科野が5名の手当てをしとりますが、どうも良くないものを貰ってきたようで」 あと一日持つかどうか。 苦虫を噛み潰したような曹長の声に、罅割れた湯呑みで酒を煽っていた中尉の手が止まった。朱の走った精悍な顔もやはり、なんとも言えないような複雑な表情に染まる。 「俺の部隊も、今ここにいる相模と二等兵が数人残るばかりだ。このままだと沖縄に着く前に全滅するかもしれん」 「ぜ、」 将寛は瓶を抱えて息を呑んだ。 全滅だなんて、そんな弱気な言葉。 日本帝國には勝利が約束されているのだ。そうでなければならなくて、そう信じていなければならない。それなのに、誰よりも勇猛果敢に敵を倒していくこの男がそんな言葉を紡ぐなんて。 年少の部下の顔が強張ったのをいち早く読み取ったのは、目の前にいた相模だった。相変わらず酒で喉を潤しながら、何を考えているかよくわからない細い目をさらに細める。 「中尉、滅多なことを言うもんじゃないですよ。将寛が怯えてしまう」 揶揄するように言って、瓶を抱えたままの将寛の腰に腕を回した。 糸目だが中々どうして男前な准尉に引き寄せられるまま、その膝の上に座り込んだ将寛は途端に首まで赤くする。短く刈り上げた項を、熱を孕んだ柔らかなものが這ったのだ。 「さ、相模准尉…っ、や、」 やめてくださいと訴えるよりも早く、手首を強く引かれた。 鼻の頭が当たった先、目に入ったのは曹長のバッジ。 支えるように背中に回った手の、その無愛想な主を下から覗き込むように見上げて。 「そ、曹長…?」 「ここにいろ」 問答無用である。 その膝の上に引き上げて抱き締める腕の強引さに、どうしたら良いかわからない将寛は困ったように中尉を伺った。防暑衣越しに密着する部分が熱を持っていく。 「随分狭量じゃないか。え?友能」 「貴様、俺たちの姫君を独占してくれるな。それに人前でどうこう出来る男じゃないんだ、困ってるだろう」 可哀想に、なんて言う准尉の目は笑っていて、中尉も口許に笑みを浮かべた。 「悪い虫がついたら困るでしょう」 「友能さん!」 躊躇いもなく答える男の、そのあまりにも自然な調子に将寛は思わず声を上げた。上げた瞬間、背にしている上官たちは揃って笑い出す。 「おい聞いたか、相模!」 「えぇ、勿論しっかりと。いやぁ、友能さん、ねぇ。なんとも」 碗を下ろして肩を震わせている准尉に、将寛はようやく気が付いた。 階級や年齢に関係なく親身にしてくれているこのふたりには、友能と将寛の関係などどうやらとうに知れてしまっているらしい。そしてそれを非難するつもりも彼等には無いのだろう。 優しいからかいに僅かばかり安堵して、けれどすぐに顔から耳にかけて深紅に染めた。 「………曹長」 気恥ずかしさに睨みつけた恋人は、平然と酒を呑んでいて。 「言わなかったら、この人達は何をするかわからないだろう。止むを得なかったんだ。許せ」 少しだけ長い艶やかな黒髪を後ろへ払うと、友能曹長はゆっくりと唇を重ねてきた。 部屋中に立ち込める酒の匂いに酔ったのかもしれない。将寛はつられて瞼を伏せて、けれど何秒も経たないうちに騒ぎ立てた男たちに引き剥がされてしまった。 「調子に乗るなよ、小僧め!貴様なんぞにウチの息子はやらん!!」 将寛を背中に隠しながらすっかり出来上がった中尉が怒鳴る。准尉は軽やかに笑い、友能は一瞬顔を顰めてから、やがて小さく笑みを零した。 よくわからないまま笑い転げていると、中尉の肩越しに恋人と目が合って。 ――― あいしている。 唇の動きだけで、彼はそう囁いた。 (あれは確か、終戦の、前日) 豊かな布団の上で、天井の木目を眺めながら記憶を巡らせる。 8月だ。 真夏の、茹だるような暑い日。 沖縄の前線に向けて、片道の燃料と爆弾を積んだ零戦が二機、男たちの敬礼に見送られて飛び立った。 泣くことも出来ず。 叫ぶことも出来ず。 アメリカを恨み、日本を恨み、命令を下した上官を恨んで、そして。 薄暗い、淀んだ空をひたすら恨んだ。 何故。 ――― 何故。 『生きろ』 恋人は呟くように言った。 『生きて、良い妻を娶り、子を育てろ。悔いのない人生だったと、誇れるように』 (これ以上ないほど、良い人生でした) 穏やかに微笑んで、頷く。 あの時共に残った中尉も、3年後に病で亡くなってしまったけれど。 それでも、彼の紹介で知り合った女性と結婚し、そして子をもうけ、心許せる友人たちと巡り合えた。 (とても、とても良い人生だった) 将寛はおもむろに瞼を伏せる。 老いたこの姿では少々恥ずかしいけれど、彼に妻を、そして妻に彼を紹介しなくてはならないと思った。 fin. |
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