憎い男


優秀な部下殿は上官の言いつけを程良く守らない。
それは松原に冷静さを与えることもあり、内心では頼りになると思ってはいてもその反面酷く憎たらしいのだ。


津田曹長が敵兵の銃弾に倒れたという訃報は、電光石火の如く松原の元へ届けられた。
犬猿の仲などという可愛らしいものではなく、津田とは一個小隊の指揮官とその補佐という立場をいつ返上しても不思議でないほどに恐ろしく気が合わなかったのだが、それでも、入隊して以来の同志を失う痛みは、目をかけてやっている部下の死を目にするのと同等の痛みを与えた。
(清々した、とは、思わないものなんだな)
不思議だと、心から思わずにはいられない。
あれ程目障りだ扱い難いと罵倒していた男なのに、どうしてその戦死を厭う自分がいるのだろう。不合理だと、苛立ち涌く感情があるのだろう。
(戦死などという馬鹿げた死に様が気に入らなんのか、それとも)
おもむろに瞼を下ろし、椅子の背に身体を預ける。急ぎ作らせた木と布のそれは酷く座り心地が悪く、松原は傍目に凛々しい眉をじんわりと寄せた。不快感に誘導されたかのように浮かんだ想像は、妙な現実味を持って脳裏を占める。
(やめろ)
(やめろ、そうじゃない。そんなことは考えていない)
松原は頭を振った。
漆黒の、無造作に伸びた軍人らしからぬ髪が湿気を伴って揺れる。
けれど気ままに歩む思考は止まらない。


――― 銃声。
空高く鳴り響き、背中にあった体温が、脆く。
脆く、崩れ落ちて ―――。


「………下らん」
容易に浮かぶその光景はあまりにも不快で、滑稽で、そして辛い。
一言で切り捨てても、何度頭を振っても沸いて溢れ出てくる『妄想』は、戦場に置いての指揮を鈍らせて咄嗟の判断を誤る重大な要因だ。松原には赦されなかった。
部下の無事を護る自分に不安はあってはならないのだ。被害を最小限で抑える為に指示し、生き永らえる為に動く。それが役目だと自負している限り、常に冷静沈着な指導者であるべきである。
不安を抱いてはならない。
信念を曲げてはならない。
そして誰よりも、生きることへの執着を断ってはならない。
「死なせるものか」
唸るように呟く。 これ以上は誰一人として死なせるものか。
勝敗などとうに知れている。大日本帝國は負けるのだ。
負ける戦に未来を担う若い命を賭けてどうなる。無駄に敵兵の命を断ってどうなる。
戦う意義の無いものに全てを放り出させることなど出来ない。
「死なせるものか」
両の拳を握り締めた。
――― 終戦は近い。


朝だ。
それまでの猛暑を忘れたかのように、気味の悪い程に清々しい朝。
間に合わせの飛行場へと進軍する敵兵の足音も無く、耳障りな銃声も部下の声も届かずただ静寂に満ちていた。
「これから、飛びます」
ひどく穏やかな声が鼓膜を震わせる。
「友能は二号機に乗り、目的地は沖縄支部。零戦の準備は万全で異常はありません」
「何が異常だ!!」
淡々と、まるで他人事みたいに報告する相模に苛立った。自分よりも厚い胸板へと拳を何度も叩き付けて、怒りに任せて怒鳴り散らす。
「帰還しない戦闘機の何を点検する!どうして今更………っ」
「中尉」
不意に。
手首を掴む手の心地良い温かさ。
見上げた先の、困ったような笑み。
どうしようもなく腹が立って半歩だけ男から遠退くと、松原は熱くなっていく目頭を両手で押さえた。
思考回路が上手く働かない。
どうしたら良い。どうしたら良いかと問いだけが脳内を駆け巡って、それは果たして数秒か、または数分であったのか、松原に知る術などないけれど、とても長く感じる間を経て唇を開いた。
「命令だ、相模。今すぐに友能とここを出立しろ」
肩が震える。
声もきっとみっともなく震えていた筈だ。
それなのに男は、出来ません、と。
「―――逃げてくれ、征一朗………」
瞳から溢れた雫が泥に塗れた軍靴の上へと零れ落ちた。


(おまえが素直に頷く姿を、たったの一度だって見たことがない)
広い和室の中央に寝かされ、最早腕の一本すら持ち上げる体力を失った松原は笑った。
いつか必ず告げたい言葉があるだなんてぬけぬけと言い放った男は臨終を目前にした今も現れることなど無く、そしてそれは特攻機の操縦席に座った以上当然であった。
(俺を待っているのか、そこで)
戻ってくるのではなく、その場所で。
生まれてこの方三十余年、死は恐ろしいものだと信じて疑わなかった。
けれどあの男が癖のある相変わらずの笑顔で迎えてくれるのなら、それはとても気分の良いものだと間際になった今は思えた。
穏やかな、静かな朝の空気が鼻腔を擽る。
下ろしたままの瞼の奥に、誰よりも憎い男の顔がみえた。


fin.

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