*その刹那に想う事


星ひとつ見えない夜空の下で、間に合わせの敵本陣を見つけた。
勝利を確信したものたちの、自信と誇りに満ちて煌々と輝く松明。
元は美しい自然だったという孤島の酷い有様は、上から見下ろすことで日本の敗北を如実に物語っていた。
(愚かなのは、一体誰だ)
独裁主義者を打ち出し散々多種族を排除したくせに、いざとなったらすぐに白旗を掲げたドイツか。自由と開放を声高に叫んで、力量を推し量れない国を責め立てるアメリカか。
それとも、便乗するように傲慢に驕って、無遠慮に、無神経に戦の火蓋を切った日本か。
(この大戦の意味はなんだ。最も尊ぶべき人民の命と引き換えるほどの、何を得た)
少なくとも、日本帝國が得たものなど無い。
喪失ばかりが大きくて、最早流す涙すら失ってしまった。
疲れた、と、相模は思う。
この手でどのくらいの灯火を断ってきたのだろう。
赤く濡れた視界では、もう目の前に翳した掌を認めることすら出来ない。
(何も見えない。何も)
けれどそれでも、と。
思ってしまうのは、ただの利己だとわかっているけれど。
ふと気づけば、離れた場所を飛行していた、日の丸の赤い印をつけた同機が僅かに間を詰めてきていた。操縦席に乗る男の姿を確認し、そして彼もまた、迷うことのない意志を確かめるように相模を見る。
交わしたのはほんの数秒に足らない時間。
それで充分だ。
飛んでいること自体不思議でならないような紙の戦闘機が二機、左右に散った。


「京都騎兵連隊、第ニ中隊、景山中尉より本日配属になりました、相模征一朗准尉です」
よろしくお願いしますも言わずに、相模は軽い会釈だけを新しい上司へ向けた。途端、弾かれるように腰を上げて怒声を放ったのは、後に聞けば当時近くに駐屯していた大隊の少佐だったという。不敬罪で打ち首にならなかったのは奇跡に近いぞと、上司の懐の広さを延々と語って聞かせてくれた同輩が言っていた。
しかし相模には不敬罪のレッテルを貼られ迷惑を被る親兄弟もなければ、殉死を名誉と誇るような血縁者もない。
どうでも良いと考えていた。
寧ろ、自分の手を汚さないまま死ねるのならば、死刑台の方が魅力的だとすら思う。
けれど生憎と、若くして貫禄を身につけている男は、礼を欠いたといって顔を赤くするような性格ではなかった。それどころか逆に可笑しそうに笑ったのだ。ヒステリックに喚く少佐に構うことなく、声を上げて笑った。
さすがに面食らっている相模の前に歩み寄り、土埃のついた肩に拳を当てる。気安い仕草だと思った。
「成る程、確かに景山の奴の頭を痛めつけていただけのことはある。中々どうして度胸がある男じゃないか。……少佐もそう思われますでしょう?」
当然、とまでは口にしなかったが、その低い声には有無を言わせない何かがあった。わざとらしい彼の笑顔に少佐の怒りは速やかに去ったようで、胸を張ってあくまで尊大な態度で部屋を出て行く。横幅が異様に広い背中が見えなくなった途端、男はうんざりしたような溜息を漏らして元居た椅子に腰掛けた。
「あの下劣な豚と同じ空気を吸うだけで吐き気がする。貴様、あれに口を利かせるような言動は以後控えろ」
肘掛けに肘を置き、その手で額を押さえるその様は妙に目を惹いた。そして何より、相模が密告する可能性を全く考えていないような命令口調が、問答無用に自分を信頼すると言われているようで。
「――― 腹の探り合いは嫌いですか」
考えるより早くそう尋ねてしまい、僅かに眉を持ち上げた端整な顔に失言かと口許を覆ったのと同時。
彼はついていた肘を伸ばして、相模へ手を差し出した。
唇を持ち上げるように笑むと、二の腕を飾る中尉のバッジを机に転がしながら言う。
「松原昂だ。貴様を俺様の下僕にしてやろう」
それが松原との出会いだった。


いつの間に、こんなにも心惹かれていたのだろう。
上司と部下。
戦場で背中を預けあう同志。
そして、誰よりも気を許せる友。
厳格な中尉の面持ちも、子供染みた悪戯に声を上げて笑う友人としての姿も。
気を抜けばいつでも目で追っていて、不意に重なる視線に胸がざわめく。
(愛しい)
息が詰まるほど。
けれど、相手は既に決まった婚約者のある社長令息であり。
そして何よりも大切な友だった。
万が一の希望のために全てを代えられるほどの若さも、失うことへの恐怖を押し退ける強かさも相模には無い。
4年の歳月を共に過ごし、増していくばかりの想いにとうとう押しつぶされそうになったこの日。
気が付けば、零戦に乗っていた。
隣を飛ぶそれには、同志である友能が居た。


『いいのか』
本当に伝えずに逝って良いのかと、前日の夜に友能が尋ねてきた。
何も知らされずに酒盛りに勤しんでいる戦友を眺め、相模は頷く。
『言ったら、逃げたくなる。そうしたら、一体誰が飛ぶ破目になるのか』
俺はどうも人が良かったようだ。
そう笑うと、上司にからかわれている恋人を見つめていた友人もまた、密やかに笑った。


海で眠ろう。
相模の方から言い出した。
今更アメリカ人の命を奪って何になる、日本は負けるのだ。
ならば、自分たちの乗る零戦ぐらい、知らぬ誰かの未来を消さなくとも良いだろうと。
特攻隊の攻撃が外れることは珍しくはない。無意味に散ったと責めるのは一握りの特権階級だけで、それでも部隊が非難を浴びることはない。
友能は静かに賛同した。
頷いてくれた彼に安堵したのは他でもない提案した本人だ。
ひとりではきっと、そんな誇りなど持てなかったから。
土と血に濡れた沖縄の海は話に聞いていたように美しくはなく、少し残念だと妙に冷静に考える。
『…逃げてくれ…』
飛び立つ直前、顔を覆い隠しながらそう囁いた男の顔が、海面に触れる寸前脳裏に浮かんで消えた。


fin.

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