科野が遅い弔問に訪れたとき、顔を忘れるには日が浅く、声を忘れるには十分な時間を置いて再会したかつての上司は泣いてはいなかった。 凛と佇むその背中がいっそ痛々しく、目を覆うばかりに号泣する遺族たちよりも深く、底の見えない哀しみを物語っているようで。 けれどその反面、彼がどこか安堵しているようにも思えたのだ。 そしてそれは、けして気のせいではなかっただろう。 一向に終わる気配の無い大戦の最中。 ほんの僅かでも医学を齧った者の目から見れば、彼の不調は火を見るよりも明らかだった。 医療のなんたるか、医学のなんたるかを一から頭に叩き込んできた外科医研修生の科野の目も例外ではなく、衛生部隊から派遣されてすぐに気が付いた。強い病に侵されているのだと気付いてしまった。 ただ病名までは診断できずにいたのに、物陰に隠れて激しく咳き込む姿に全てを理解したのだ。軍医に掛かろうとしない理由も、不調をひたすらに隠す訳も。 本当に偶然だった。用を催して目が覚めただけだった。それなのに。 (知らないままが良かった) 悪化する一方のその姿を前に、医学を学んだことを心から後悔した。 取るべき処置もわからず、与えるべき薬石もわからない。 頼っていた先進国の医学はここには届かない上に、せめてと思うのに十分な栄養すら欠如しているのだ。 (気付かないままが、良かった) そうであったならば、真夜中、敵兵のものとは違う物音に耳を済ませたりせずに済んだだろうに。 「……中尉、」 草を踏む足音に、一晩の宿としている洞窟から僅かに離れた森の中で蹲っていた背中が揺れた。 部隊に配属された折に出逢った頃よりも、一昨日よりも確実に痩せた。 元々筋肉の薄い身体なのだろうけれど、それでも当初は軍人らしい体格をしていたのに。 「中尉、後生ですから大隊の軍医に」 「言うな」 咳に掠れた声を払拭するように、ひとつ大きく咳払いしてから言い放った。その声には最早苦しげな様子など微塵も無く、すらりと立ち上がった後ろ姿は常と寸分も違わずに凛々しいのだ。 「何も言うな、科野」 後生だ、と明るい笑顔を口許に浮かべながら振り返られて、何も言えなくなる。 けれどそれでも訴えたい言葉は止む事無く胸中に溢れ、科野は俯いて唇を噛み締めた。そして自分の無力を心底呪い、不甲斐無さに打ちひしがれる。 繰り返しているのだ。 端整で儚く、誰よりも毅いこの上官に出逢ってからずっと。 つまらない葛藤ばかりに頭を悩ませて、その間に彼の病状は悪化していく。 「もう戻るぞ。油断大て……科野、」 科野はいつの間にか握り締めていた拳を解いて、横を過ぎようとしている男の肩を掴んだ。不敬罪で撃たれる覚悟ならばいくらでもするつもりだけれど、この男はけしてそれを許さないだろうと頭の片隅で思う。戦士を名誉とする時勢だというのに、何よりも生きることを命ずるような軍人なのだ。 志願兵の彼の信条にしては矛盾ばかりではないか。そう思うのに誰も聞けずにいるのだと、以前谷崎上等兵が言っていたのを思い出す。 手を振り払うことなくまっすぐに視線を返してきた男に、問いかけた唇を再び閉じた。 (聞けるわけがないんだ) 戦場に出ずとも良い身分であるのにも関わらず、そして死を厭うのならば何故志願したのか。 欧米ならば特効薬もあったかもしれないのに、どうして早期の治療を受けなかったのか。 華も何も、全てを持っているこの男を惜しまない人間などいないだろうに。何故。 何故。 (俺たちは何も) もどかしさばかりを胸に、科野たちは何も問うことが出来ずにいる。 中尉のこの瞳が何もかもを拒絶しているからだろうか。 影のようにこの男の傍に付いている相模准尉にですら、きっと踏み込むことを許してはいないのだろう。漠然とそう思った。 「科野、俺は一人は嫌いだ」 「――― え?」 不意に聞こえた声。 科野は散っていた意識を慌てて掻き集めて、僅かに背の低い男を見た。 視線をどこかへ外しながら中尉は柔らかく微笑み、独り言のように呟く。 「一人は嫌いなんだ、俺は。……それだけだ」 3年ぶりに見た谷崎は一切の涙を見せず、時折、片時も離れず傍にいる細君の言葉に微笑みを浮かべる。科野はその隣に腰をゆっくりと下ろして、美しい男の位牌を眺めた。 入隊の時にでも撮ったのだろう。 軍服を身に纏い、きっと誰よりも端整で気品のある中尉がそこにいた。 黒い額縁に入っている写真は白黒だというのにひどく鮮明で、どうしようも無く目を惹き付ける。外見的な美しさだけではこうはいかないと思った。この男の人徳だ。 「――― 時々、思うよ」 ぽつり、と、小さく問われて顔を向ける。谷崎が外へやったのだろうか。いつの間にか細君の姿は無く、広すぎる室内には二人だけが残っていた。 「終戦が一日早かったら、僕たちはどうなっていたんだろうって」 「………」 科野は谷崎の視線を辿るように位牌を見つめた。 友人として懇意にしていた男を亡くした気持ちというものは痛いほどに解っているつもりだ。けれどそれ以上に、谷崎の想うところを共有できている筈だと思う。 「………俺も」 ゆっくりと頷いて、言う。 「俺も思います。俺たちは無くさなくて良いものを、たくさん失ってしまったから」 「そうだね」 まっすぐに中尉を見つめていた顔を科野に向けて、谷崎はうっすらと微笑った。色々なものを失ったと、口の中で確かめるように反復する。 だけど。 そこで言葉を切ると、谷崎は喪服の胸元から茶色に変色した写真を一枚取り出して畳に置いた。指でそこに映る男たちをなぞり、思い出に浸るように目を細める。 「だけどきっと、あの時に失わなければ、ずっと叶わないままのものもあったんだとも思うんだ」 失ったもの以上に、自分たちは多くのものを持ちすぎているから。 古い傷跡だらけの指が示す、上司であり戦友であった男たちに視線を落とした。 「……そうですね」 朝だ。 それまでの猛暑からは考えられないほどの、清々しい夏の朝。 敵兵の声も気配も無く、ただ木々が風に揺れる微かな音だけの、静かな時間。 『…逃げてくれ…』 聞こえてしまった言葉に叫び出したくなったのをよく覚えている。 華奢な肩を震わせ、俯いた顔を両手で覆い隠していた。 『逃げてくれ、征一朗』 胸を引き裂くような懇願にも、相手は微笑んだまま首を緩く振ったのだ。 出来ません、と。 どうか生きて下さい中尉。俺はいつか必ず。 『――― かならず、俺は……』 「そうですね」 間を置いて首肯したのより僅かに遅れて、戸の近くで細君が控えめに良人を呼ぶ。 彼がおもむろに立ち上がった。 そして口許を綻ばせて笑う。 その顔にはやはり、哀しみよりも安堵を濃く浮かべているようだった。 「中尉は叶ったんだろうね」 門出なんだと思うよ、今日は ―――。 置かれた声が身体中に浸透していくのを待って、科野も小さく笑った。 慰問客もすっかり去った屋敷は静かで、小鳥が涼やかに囀るだけだ。 時の経過とともにゆっくりと滲んでいくあの夏の日のような、穏やかで静かな朝だった。 fin. |
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