がたん、と、後ろで何かが倒れた音がした。 続いて水が撥ねる微かな音。 畳に両膝を着いたままおもむろに顔だけを向けると、そこには目を瞠って凝視してくる美都子夫人が居た。すぐ横の壁に畳んで立ててあった卓袱台が倒れている。高価では無いけれど質の良さそうな浅葱の着物の裾を、桶から零れたのだろう、透明の井戸水が濡らしていた。 どうしてまだそこに居るのだと、無言で責め立てるような青白い顔の中、紅で飾った唇ばかりがやたらと目立っていけない。 夫人の儚げな美しさを引き立てるのは、櫻のように薄い色の、自然なままの荒れた唇だ。色素が薄い赤は安っぽいし、そしてそれは気安い娼婦の色に違いない。品が無い。 「こ、」 「赤は似合いませんよ」 震えた声が何かを紡ぐより早く、いつもの通りの笑顔を向ける。言葉はみっともなく掠れたけれど、十分に信用できそうな、そんな微笑み浮かべたつもりだ。 夫人が息を呑む。 きっと、上手く笑みの形を取れていたのだろう。ひどく満足して、ぐらりと傾くままに重たい身体を横たえた。 手足が思うように動かない。 けれど、それも悪くない。 転がった湯呑みとそこから零れた白湯に白い花弁。 白湯だと思ったのだ。 けれど、無造作に置いてあったから飲んだそれは、けして湯の味ではなく。 舌がじわりと痺れ、喉は焼けるような熱を孕んだ。 歪んできた視界が般若のような女の顔を捉える。そしてすぐ目の前に、ただ仰向けに寝転んでいる男の身体。 (―――せんせい) 先生と口内で反復して、鉛のように重たい指を伸ばした。瞼を閉じてあげたかった。 行灯(あんどん)の灯りは、暝(ねむ)る瞳に眩しいだろうと思った。 けれどその頬に届く寸前で、駆けつけた足音に阻まれる。 「渡さないわ!」 女のヒステリックな声が耳を打った。 きぃんと響いて、頭蓋骨が鈍く震動する。 込み上げる吐き気を堪えられず、また堪えるつもりなど毛頭無く、胃ごと飛び出てくるのではないかと疑いたくなる勢いで嘔吐した。 顔の横の畳が汚れ、異臭が鼻につく。 このままの体勢だと髪についてしまうかもしれない。そう考えたけれど、避ける体力は最早無かった。 「渡さないわ渡さないわ!絶対に、絶対にあんたなんかに渡してなるものですか!渡してやるものですか!」 夫人の、華奢な腕が男を抱きかかえた。 着いた膝に胃液が滲むのも構わずに、鋭い双眸が見下ろしてくる。 道端に転がる動物の死骸を見るような目だ。 撒き散った臓腑を見るような目だ。 汚物を見るような、吐瀉物などとは比べようもないと言いたげな、そんな、熱くて冷ややかな目だ。 「渡さないわ、あんたになんか、爪の一枚ですらやるものですか」 (そんなもの) そんなもの、と、思う。 例えば爪の一枚が。 例えば髪の毛の一本が。 例えば、皮膚のひとかけらが。 ―――そんなものがこの男なのでは、ない。 そんなものがこの男を占めているのではない。 空になった肉体(いれもの)に執着する気などは無かった。ただ、開いたままの瞼を閉じてやりたかっただけだ。 「あんたなんか、薄汚い男娼のくせに」 夫人はひたすらに、うわ言のように罵詈雑言を並べ立てている。 掠れていく視界が虚ろに見つけたその顔立ちはどこか病的で、だからこそ美しいのだと思った。 「あんたなんか、あんたなんか」 (あぁ) ぶつけられる憎しみが、怒りが、酸素よりも自然に肺へ入って血液のなかを巡っているようだ。心地よい。 ひどく、ひどく心地よい。 (先生) 幸十郎は微笑った。 今度は自分でもきれいに笑えたと思った。 (先生、俺はやっぱり―――て、いるのかもしれない) ―――って、いるのかもしれない。 妻に遺すのだと、先生は言った。 もしも自分の身に不幸があったとしても最愛の女が路頭に迷うことなどないようにと、そう照れたように言いながら筆を走らせた。 背中から覗き込んだ薄い皮紙に、すらすらと墨が乗っていく。 先生に教わったおかげで、幸十郎はほとんどの文字を読み取ることが出来た。読み書きが出来れば家の仕事を手伝うこともいくらか容易くなるし、正確に書物などを読み取れればやはり重宝する。今まで感謝したことはあれども、そのための勉強等を厭うたことすらなかった幸十郎だが、この時ばかりは出来なければ良かったと思った。 ―――私は、ただの一度も君からの愛を裏切ったことなどなく、 その穏やかな顔立ちが浮かべている笑みとは裏腹に、内容は随分と暗く、淀んだもので。 ―――万が一に備えていた僅かばかりの貯金と、私の持つ全てを君に、 「………先生」 幸十郎は目の前の肩を抱き締めた。 一昨日よりも、昨日よりも痩せたと思う。 襟足に頬を触れさせ、小さく震えた耳元に唇を寄せる。 「先生、構って下さい」 寂しいんだと、そう囁きながら単の衿に指を滑り込ませると、一回り以上も年上の男が緩く首を振った。重なった手に手を外されて、振り返らない後頭部を凝視する。 「………駄目だ。止めなさい」 間を置いて、先生が言った。 「美都子への手紙を書いている最中に、私は君の事を考えるべきじゃない」 (いつだって考えてるくせに) 胸の中で呟いて、哀しくなった。 いつだって考えていてくれるくせに、そうだと思えるのに、この男はけしてそれを明かしてはくれないのだ。先生の中では全ての中心が妻にあり、年若い情人を二の次にする。 ようするに後ろめたいのだろう。 妻への愛を誓う傍らで、読み書きを教えている呉服屋の倅と不義を働いている。幸十郎がようやく十五になったという事も、そしてお互い男なのだという事にも、先生は背徳を感じ、ふたりの間に重たい罪ばかりを探し出す。だからこそ妻への操立てをして、少しでも誤魔化そうとするのだ。 (そんなものばかりじゃ、ない) どれだけ道理を外れていようとも、そこにあるものはけして罪ばかりではなく。 何よりも純粋な気持ちが、あるというのに。 幸十郎はそう思うのに、愛しいひとは同じく考えてはくれない。寂しいことだと思う。 ひどく。 「先生、寂しい」 呟いて、その腰へと回した手に力を篭めた。先生は沈黙したまま筆を置き、小さな溜息を吐いてから腕の中で身じろぐ。身体の向きを変えようとしているのだと気がついて、幸十郎は腕を緩めた。 「………どうして寂しいんだ」 間近で重なった視線が優しく問いかける。あなたのせいだと口を開きかけて、止めた。読んでしまった手紙の内容が引っかかっていた。あれではまるで―――。 「……先生、俺には?」 気になったふたつの内の、ひとつめを問う。 先生は要領を得ない言葉に首を傾げた。 「うん?」 「俺には、何も遺してくれないんですか?」 美都子夫人には、全てを差し出すのに。 妻こそが最愛だと言って憚らず、一ヶ月前と比べ随分と華奢になった腕で筆を取るというのに。 それなのに、愛を語る事も許さない情人には、何も―――? 「君には、あれを遺すよ」 その指が向いた先に目をやって、見つけた花に暫し見入る。 鈴蘭だった。 「あの鈴蘭は君へ贈るよ。約束をしよう」 先生が優しく微笑んで、だから、と言う。 「いつか気が向いたときに、あの花でも摘んで、白湯に落とすといい」 先生は死ぬの? 尋ねたかった言葉は喉の奥に消えた。 先生をこの腕の中に包んで、頬を撫でてからその唇を啄ばむ。 何にも代え難い至福の時間だった。 けれど愛しい人は無常にも言い放つのだ。 君のそれは恋でも愛でも無いと。 若さゆえのただの好奇心だと。 (好奇心でもなんでも) 幸十郎はその度に彼の首へ指を掛ける。 (好奇心でも、なんでも、俺が貴方を欲っしてることには変わりないのに) 何故。 一体何故、先生は頑なに拒むのだろう。 愛人の幼さにだろうか。 それとも彼が妻帯者であるからだろうか。 呉服屋の倅とうだつが上がらない物書きだからか、それとも。 (男同士だから―――?) 全てを受容した振りで全てを拒否するこの関係は、いつだって幸十郎の胸を引き裂いていく。ならば始めから受け入れてくれなければ良かったのに。そうすれば期待などしなかっただろうに。 持て余した劣情が、ぎりぎりのところで愛の形を保っているような、そんな不安定な想いを抱かなくても済んだかもしれなかったのに。 『もう狂っているんだ、何もかも』 冷静さを欠いた愛に、良い未来などひとつもない。 そう諭すように囁くくせに、触れれば乱れ、離れれば手を伸ばしてくる。 (狂っているのは、) 『君の愚かさは、残酷なんだよ』 (どっちが) 愚かなのは先生の方だ。 残酷なのも、狂っているのもすべて。 『あぁ、美都子が帰ってくる時間だ』 ―――指に力を篭めてしまいたくなる。 「おい、松屋」 離れた丘に自分を捜す声を聞いていた幸十郎は、不意に落ちた影に瞼を持ち上げた。害虫の去ったばかりの大きな櫻の幹の下、木漏れ日を頬に受けながら真上から見下ろしてくる従兄を見る。 「こんなところで何してるんだ、おまえは。叔父上が血相を変えていたぞ」 「父が……」 「捜していた。あまり心配かけてさしあげるな、親不孝者め」 果たしてそれは一人息子を案じたのか、それとも店の外聞を気にかけたのか。 あの男の場合ならば間違いなく後者であろう。そう思って、笑う。 年端もいかない娘に産ませた幸十郎を引き取り跡継ぎとしたのも、全ては誠実な愛だったのだと周りを誤魔化すためだ。そうでなければまるで健康体であった幼い母が、どうして産後の肥立ちが悪いと入院などをしたのか。何故実の両親すら面会謝絶のまま、その生涯を閉じたのか。 『おまえの父は鬼だ。憎くてならない』 母の兄である人の言葉を思い出す。 唸るような低い声で、それでも、と。 『それでもおまえは愛しい。最愛の妹の、忘れ形見』 愛とは盲目だ。 自分にはその人しかいないのだと思い込む。だからこそ激情に駆られるまま走ってしまう。 あの娘は愚かだった。 愚かで、誰よりも純粋だった。 だからこそおまえの父に騙され、けれどひたすらに愛したのだ。 『おまえは、そうはなるな』 愛して愛して、愛しすぎて視界を失くすなどという哀れな人間には、どうか。 どうか。 (手遅れだよ、伯父上) 「幸十郎?」 名を呼ばれて虚ろに見やる。いつの間にか隣に腰を下ろしていた伊吹が、幸十郎の額にかかる髪を掬った。 「幸十郎、大丈夫か、なぁ」 逆光でその表情はわからないけれど、きっと泣き出しそうな顔をしているに違いない。確かめるように髪に触れ、頬に触れる指が小刻みに震えていた。 口に咥えていた白い花弁を飲み込んで、すぐ真横に咲き誇る花へ手を伸ばす。ひとつの株に十の蕾をつけるはずのその花には、あとたったひとつのそれしか残っていない。他は全て腹の中だ。 「幸十郎……」 散々巻き散らかした胃液と、それに混ざった赤いもの。 伊吹は新調したばかりらしい洋服の袖で幸十郎の口許を拭った。それを笑って辞退しようとするのに、どうにも腕が持ち上がらない。 こうじゅうろう、二つ年上の従兄が呼んだ。 返事をしようにも、喉が灼けて声が出ない。 夏に近づいた雲が、ゆっくりと遠い空を流れていく。その様子は手に取るようにわかるけれど、目の前に居るはずの伊吹の顔はわからなかった。 ふと、美津子夫人を思う。 伯父の悲痛な訴えに、彼女を思う。 小春の陽射しのように柔らかく微笑むあの女性は、今、どうしているだろう。 伊吹が聞いたところによると、夫に鈴蘭の茶を飲ませ続けた女は精神を病み、田舎の両親に引き取られていったという話だけれど。 ―――愛して愛して、愛しすぎて、 (あぁ、俺も、狂っているんだろう) 重たい瞼を伏せて、幸十郎は微笑む。 そしてやはり先生も狂っていたのだと、最後の鈴蘭の花を咥えて思った。 『あの花でも摘んで、白湯に落とすといい』 一緒に死んでくれと、そう言ってくれれば良かったのに。 最期の最期まで自分を偽ることなど、ないだろうに。 美都子夫人は幸せな女だ。 誰よりも愛した男に愛されていた。 「幸十郎、おまえ、良かったなぁ」 ようやく先生の元へいけるぞと、伊吹が笑ったようだった。 咥えた花弁を伝って、口の中に雫がひとつ、落ちた。 fin. |
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