*それは彼にとって深刻な問題 (前)


「――― あ?」
窓ガラスを叩き割るような勢いで振る雨。
駅前の大通りも入り組んだ細い路地もとにかく水浸しで、どこをどう歩いても靴下がたっぷりと水を吸収するような、そんな酷い雨だ。
否、雨だなんて可愛らしいものじゃない。台風だ。
一体何号なのかは忘れたが、日本列島を直撃するものだと、出掛けに見たテレビの中でいかにも新人と言った口調の若い天気予報士が言っていた。
伶は濡れた髪をタオルで拭いながら、背を向けてソファに座っている男へ鋭い視線を向ける。本人には睨むつもりなどまるで無いのだが、視力が極度に低いせいで裸眼のときはつい目つきが悪くなってしまうのだ。あまり良い癖とは言えない。
「今なんつったよ、オマエ」
「だから別れようって」
「ふざけんな」
一笑して中途半端に水を含んだタオルを投げ捨てる。シャワーで火照った上半身を晒したまま勝手知ったるなんとやらの要領で狭い台所へ進むと、おもむろに冷蔵庫の前に屈んだ。風呂上りにはビールだ。けれど覗いたそこには常備されている筈の気に入っているメーカーはなく、仕方なく入っていたものを一本を手に取った。
「……オマエ、腹立つぐれー足なげぇよな」
立ち上がった視界に自分の足元が目に入って、ぽつりと呟く。
身長はほとんど変わらないのに、拝借しているジーンズの裾を折り曲げる余裕があるのが頭にくる。伶だって座高の方が少しだけ低く、同じような体格の人間を隣に置けば股下が占める割合の差は歴然だ。スタイルにも自信があるし、事実モデル体型の八頭身なのに。
伶にとって足の長さは多いに自慢できる代物だ。それがよりにもよって付き合っている相手よりも短いとは何事だと思う。
口の中でふざけんなよと繰り返した。しかし舌を打ってみたところで、こればっかりはどうにもなりそうにない。
「ふざけてるのはどっちだよ」
呆れたような声に顔を上げる。ついてもいないテレビに向かった顔はそのままに、恋人は深い溜息を吐いた。
「俺はマジメな話してるの。ふざけてるの、おまえだろ」
「マジメな話?」
「そう」
「何?」
「だから……」
見当もつかないというような調子で問いかけてみると、半ばうんざりしたような動作でようやく振り返った。目が合った瞬間彼は気まずそうな顔をしたが、今は見逃しておく。真面目な話をやらを聞くことが先決だと思った。
「………だから、別れようって、そう言ったんだろ」
「却下」
伶は即答した。
躊躇いも戸惑いもない。
別れを切り出せば頷くとでも思っていたのだろうか、恋人は目を丸くして伶の顔を凝視してくる。そんな様子に構わず、前へ回り込んでから隣へ腰を下ろした。それほど勢い良く飲んでいた自覚はないのに、傾けた缶からはもう何も出てこない。なんとなく腹が立って空き缶を握りつぶした。その音に狭いラブソファの中で触れている肩が震え、震えた肩に腕を回して引き寄せると潰れたアルミを目の前のテーブルに放る。
「却下だよ、却下。いつまでもバカ面晒してんなっつの」
切れ長の目を目一杯見開いている姿が可笑しくて、笑いながらその鼻の頭に唇を落とした。なんでと呟く声がしたから、視線を合わせるついでに額も合わせる。
「何?」
「別れようって言ったんだけど?」
「聞こえた。耳も割かしいいんだ。知ってんだろ」
「知ってるけど。じゃなくて、俺、今、別れたいって、そう言ったの。わかってる?」
わざわざ一言ずつ区切って言うのに大きく頷いてみせる。肩を押されて、ソファの肘掛けに背中を沈めた。
「ふつうさ、こういうときって理由とか聞くもんじゃないの?」
覆い被さってきた男の前髪へ手を伸ばして、そこに指を埋める。手触りはあまり良くない硬い髪だ。黒くて短い髪。好きだと思う。
「”理由は?”」
「………伶」
棒読みで聞いてやると、ひどく不満そうな顔をされた。それも可笑しくてつい笑ってしまう。
「伶、俺は本気なんだよ」
本気で別れたいと思っているのだと反復する唇が、ゆっくりと、すっかり冷えた身体に触れた。肌を擽る吐息の熱が、触れた箇所に伝染していく。
別に伶は構わないのだが、このまま済し崩しになった場合、目が覚めて機嫌を損ねるのはこの男の方だ。仕方ないから茶番に付き合ってやることにして、言葉と行動が噛み合っていない恋人の頬を両手で包み、無理やり視線を交わす。
「理由は?………慎司」
苦手だと知っているから、わざと低く問い掛けて、ついでに自分でも滅多に浮かべないと自覚している満面の笑みを貼り付けてやった。
それに欲情でもしたのか、先ほどまでの不機嫌な表情はどこへやら、慎司は伶の首筋に顔を埋めて歯を立てる。軽く啄ばまれると痺れるような感覚が体内に走り、胸に手を這わせて本格的に行為を始めた男を窘めるように睨み付けた。
「オイ」
「――― 後で話す」
顔も上げずに答えた声は、雄のそれだ。
乾いてきた前髪をかきあげて溜息を吐く。
(やっぱいつものパターンじゃねぇか、アホらしい)
今度は一体何があったんだと思考を巡らせるが、それもすぐにままならなくなって考えるのを諦めた。



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